もとかわのブログ

気ままに生きていきます

社会的な価値に左右されるしかないのではないか。

社会的な価値に左右されて生きるのはごめんだと思いながらも、そんな価値に左右されて生きるしかないのだと思うことがある。「何言ってんだこいつは。」という思った方は、そっとその思いをしまって優しい目で読んでほしい。

 

インスタ映えなんて言葉が最近できた。写真は嫌いではないし、きれいに写真を撮ることも楽しいだろうと思う。しかし、リムジンの中でシャンパンを持った女達の写真にハッシュタグで遮られた文章。これはどうも好きになれない。あの情報からは、「私は充実しているのよ」「私は上のクラスのことをしているわ」と言った言葉が回りくどく、重くのしかかってくる。

 

インスタは始めてから1週間もせずに辞めた。幸せのアピール合戦に参戦しようとはこれっぽちも想うことが出来なかったのだと思う。

 

リムジンに乗ることが幸せなのだろうか?きれいな海で一人浮かぶことがそんなに幸せかい?ディズニーチケットを彼女にドッキリで渡す動画、見飽きたよ。

 

僕は、「幸せはこれだ!」と固定化されるのを怖がって、他を否定しながら自分の幸せを模索した。

 

幸せは、十人十色。人の価値観によって様々な形があって良いはずだ。

 

最近、浮気がよくワイドショーで取り上げられる。浮気は自尊感情を下げると思う。あれだけ社会が悪と扱うものを善として生活できる人はいないのではないのだろうか。浮気は「自分は悪いことをしている」と認識せざるを得ない行為だ。その感情を抱きつつ、人は幸せになれるだろうか。答えはNoであろう。

 

「大学を卒業して、フリーター」これを聞いて、世間の人々はどう思うのだろうか。大卒フリーターでも幸せなら良いはずなのに、世間の目は厳しい。その目が厳しすぎて、自分がフリーターになった時のことを考えると、幸せになれるとは思えない。大卒フリーターが不幸せにするのではない。大卒フリーターを批判する社会が不幸せにするのだ。だから、毎年大学生は、就活シーズンになると、大手企業という幸せの看板を目がけて頑張る。

 

自分の幸せを求めて、やりたいことをやろうと頑張る。でもその先には社会から認められる生き方ではないと幸せを感じることができない現実がある。

 

固定化されない独自の幸せを求めながら、固定化された幸せを感じるしかないのだろうな。

 

生きにくい社会ですこと。